グイノ・ジェラール神父の説教
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神の母の祝日
主の公現の祭日
主の変容の祝日
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神の母マリア 2016年1月1日 グイノ・ジェラール神父
民数記 6,22-27 ガラテ 4,4-7 ルカ 2,16-21
この新しい年の初めにあたり、私はモーセの祝福の言葉を借りて、新年の挨拶を申し上げたいと思います。
昔、この祝福は 会堂で行われた安息日の祈りの終わりを示す祈りでした。 しかし、この祈りは選ばれた祭司たちだけが唱えることができました。
ご存じのように、アッシジの聖フランシスコはこの祝福の祈りが大好きでしたので、彼は度々自分の仲間たちのために、この祝福で祈る習慣がありました。
私も今朝、「主があなた方を祝福し、あなた方を守られますように。 主が御顔を向けてあなた方を照らし、あなた方に平和を賜りますように」(参照:民数記 6, 24-26)切に神に願います。 そして今日は神の母マリアの祭日ですから、マリアがあなた方にご自分の母性的な優しい現存を感じさせるように更に祈っています。
神の独り子イエスを生んだので、マリアは「神の母」と呼ばれています。
マリアは神の言葉に肉の体を与えました。 しかし、母マリアの神秘的な母性は謙遜と素朴さのうちに隠されています。
実際に、飼い葉桶に眠っている幼子イエスを謙遜に仰ぎ見ることで、私たちは神とマリアの神秘をほんの少しだけ理解できるのです。
マリアは自分の母性愛を豊かに与えようとして、全人類の弱さや貧しさ、或いは苦しみと一致するために、自分の神、自分の子イエスをよく見るように私たちを誘っておられます。確かに、マリアは私たちと共にイエスを見て拝み、そして自分の体内のうちに神が人間になったと知って、そのはかり知れない喜びを私たちと分かち合います。
イエスを仰ぎみるマリアを見ることによって、私たち自身も優しく、そして柔和と謙遜で満たされた眼差しでイエスを仰ぎ見ることを学ぶことができます。
マリアは「肉となった神のみ言葉」の神秘を心に思い巡らす方です。 マリアはすべてを理解できませんが、自分の信仰や希望と祈りを養うために、そのすべてを心に納めました
今日、特にこの新しい年を通して私たちが益々母マリアに似る者となる恵みを神に願いましょう。
新年はどんな年になるのかは誰も分かりません。 しかし、マリアの信頼と忍耐を自分のものとするなら、私たちはこの年を恵みの年、私たちを新たにする年として生きることができます。 そのやり方はとても簡単です。
ですから神の言葉に注意深く耳を傾けましょう。
ですから、先ず、今年私たちに与えられる全ての小さな幸せの瞬間の時のために、神に感謝することを母マリアに「教えてください」と願いましょう。 そして、私たちの日常生活の平和を壊し自分の予定をひっくり返す思いがけない出来事に対して、勇気と信頼をもって私たちが耐え忍ぶ力をも母マリアに願いましょう。
イエスの後に忠実に、そして謙遜に歩みながら、神の言葉を黙想する恵みを母マリアに乞い求めましょう。
「何よりもまず、神の国を求めましょう。 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(参照:マタイ 6,33)。 アーメン。
主の公現の祝日A年 2017年1月8日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ 60,1-6 エフェソ 3,2-6 マタイ 2,1-12
東方から来た占星術学者たちは、長い砂漠を越えて来ました。 彼らを見て、エルサレムの人々は不安を抱きましたが、占星術学者たちは恐れずにヘロデ王の宮殿まで進みました。
占星術学者たちは、生まれたユダヤ人の王を自分たちの目で見たいので、その目的を目指してすべての障害を乗り越えました。
彼らの心の中に、ためらいや疑いや恐れは全くありませんでした。 その結果、彼らの期待は満たされました。
占星術学者たちは、ユダヤ人の王が生まれたことを知っていましたが、その場所が分かりませんでした。
ヘロデ王と律法学者たちは、生まれるべき場所を知っていましたが、ユダヤの王が生まれたことは知りませんでした。
ですから、彼らは必然的に出会うことが必要でした。 なぜなら、生まれた子供を見つけるために、またその子は確かに預言者たちが語った子供だと言うことを認めるために、ユダヤ人と異邦人はお互いが持っている知識を、分かち合うことが必要でした。
この出会いのお陰で、占星術学者たちとヘロデ王や律法学者たち皆が、ユダヤ人の王が生まれたこと、また生まれた場所を知るようになりました。
ところが、なぜか占星術学者たちだけがベツレヘムで救い主に出会い、救い主の誕生をずっと待ち望んでいた律法学者は、ベツレヘムまで行きませんでした。
その理由は、未だに解明されていない謎です。
「探しなさい。
そうすれば、見つかる」(マタイ7,7)とイエスは勧めました。 占星術学者たちは、生まれたばかりの幼子を一生懸命に探し、そして見つけました。
彼らは、心の中に大きな喜びを抱きながら、自分たちの国へ帰りました。 そこで私たちも自問しましょう。
私たちは精一杯、神を探し求めているでしょうか。 神を探し求めることは、自分の信仰を改めて問題にすることではありません。
むしろ神を探し求めることは、大きな揺るぎない信頼を与えるのです。 なぜなら、神を見つけることは私たちを完全に新たにし、神を発見することは終わりがない追求だと言うことを理解させられるからです。
しかし、神を見つけるためには、既に神を見つけた人々の助けと教え導きを願うことが必要です。
実は、神ご自身が既に私たちを探し求めておられるのです。 占星術学者を導いた不思議な星がそれを具体的に示します。
神はこの星を使って、イエスの方へ占星術学者たちを率先して導きました。 神は必ず私たちを探すと言うことを知って、神を信頼する人は神の現存を絶えず探し求める人です。
それは神について人が持っている想像や考えを正しく、清くするためです。 天国にいる人は終わりなく「いつも、いつも、初めのようにずっと終わりなく、神を発見し始めるのです」と、ニッセの聖グレゴリオは教えています。
夢でお告げがあったので、占星術学者たちは別の道を通って自分たちの国へ帰って行きました。
キリスト者にとって「自分たちの国へ帰って行く」ということは、天の父の家に帰ることです。 確かに、神は詩篇を通して教えているように、私たちの故郷は天にあります。
「『人はみなことごとく天の国で生まれた』と、いと高き神ご自身がこれを固く定められた。 主は諸国の民を登録されるとき、『この者はみな天の都で生まれた』と繰り返し言われる」(参照:詩篇87,5-6)。 聖パウロもフィリピの信徒への手紙で次ぎのことを書きました。 「わたしたちの国籍は天にあります。 そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」(参照:フィリピ3,20-21)。 私たちの両親のお陰で、私たちはこの地球に住むようになりました。 しかし、信仰という「別の道を通って」私たちは出てきた天の父の家に帰って行きます。
私たちはイエス・キリストに出会えば出会うほど、私たちの人生は新しい意味を受け取ります。
そうすることで、私たちの生き方は益々私たちの永遠の運命と一致して合意に達するのです。 なぜなら、イエスにおいて実現されるすべての出会いは、絶えず私たちが回心する招きですから。
更に、ご存じのように救い主イエス・キリストと一致させるすべてのミサ祭儀は、私たちを父なる神への道に導きます。 ですから、占星術学者たちに倣って、イエスを探し求めましょう。
私たちが彼を探せば、必ず見つけ(参照:マタイ7,7)、自分の目で神の救いを見るでしょう。 アーメン。
主の変容の主日 A年 2017年8月6日 グイノ・ジェラール神父
ダニエル7,9-10,13-14 2ペトロ1,16-19 マタイ17,1-9
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これにきけ」と父なる神は願っています。 群衆はイエスの話を聞くことが大好きでした。
イエスも人々の話に耳を傾けることや出会った人々の家で、彼らと一緒に食事することを好みました。
カナの披露宴、徴税人であったマタイとザアカイの宴会、ファリサイ派シモンとの食事、ラザロやマルタの家の親密な食事、さらに最後の晩餐と復活後のすべての食事を思い起こしましょう。
よく知られている「パンの増加の話」を、新約聖書は六回繰り返し述べています。
このピクニックのような盛大な宴はイエスのそばに集まってきた人々を養い、満腹させました。
イエスと弟子たちにとって、このような食事の時は休みを取る時であり、平穏な生活を味わい、新しい力を取り戻す機会でした。
毎日曜日、神のことばを聞くためにイエスは私たちを誘っています。 それはご自分と共に食事をし、ご自分との友情を味わい、そしてご自分のうちに留まるようにするためです。
確かにミサ祭儀を通して、イエスは私たちに天国の雰囲気を体験させます。 イエスは私たちへの友情の飢えと渇きを持っておられるので、ミサ祭儀で私たちを待ち歓迎します。
このミサ祭儀を通して、私たち一人ひとりは自分のうちに慰めと力を受け入れることができます。
ですから、絶えず喜びと心からの歓迎でイエスの言葉と御体で自分を養いましょう。
本当にイエスは私たちを見て、深い憐れみを示し、深く愛されます。 と言うのは、イエスは罪とあらゆる悪から私たちを救いたいからです。
またイエスは、ご自分の現存で私たちを養い、聖霊の力のうちに私たちを愛の完成にまで導きます。
既に預言者イザヤを通して、神は私たちをあらゆる面で満たしたいという希望を知らせました。
「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。 銀を持たない者も来るがよい。 穀物を求めて、食べよ」(イザヤ55,1)と。 そう言う訳で、イエスはいつも無償でご自分の言葉のパンとご自分の体のパンを、私たちに与えてくださいます。
同時に、イエスは他人に対するご自分の気配りと偏見と恐れのないご自分の愛し方を、私たちが真似るように示しその愛を無償で与えます。
イエスが与える糧は、私たちを実際に変容させます。
「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはありません」と聖パウロは私たちに思い起こさせます。 神は「力強い人々のパン」(参照:詩編78,25)で私たちを養います。 その結果、目に見えなくても感じなくても、ご自分の言葉と体のパンでイエスは私たちの心の飢えと渇きを満たします。
同時にミサ祭儀によって、私たちの周りで生きている人々の方へ、イエスは私たちを遣わします。
「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」とイエスが言われた理由は、私たちが他の人々に向かって生きる人となるためです。
この世では、すべての物を売り買いすることができる世界なので、何かを無償で与えることと自分自身を捧げることは、愚かなことに見えます。
しかし、この愚かさこそが、世界を救い、この世を変容させます。 ですから、神が私たちに対して寛大な方でおられるように、私たちも他の人々に対して心を大きく開く人となりましょう。
そしてご自分に従った群衆をイエスが深く憐れんだように、悲惨な出来事や様々な形の不幸な出来事によって被害を受けた人々を私たちも深く憐れみましょう。
さらに聖霊の喜びで満たされ、キリストから私たちをも引き離すことが全くないからこそ、キリストに属する者であることを悟って誇りましょう。
アーメン。
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